日本を代表するピアニストの一人で、2011年から東京音楽大学の学長の学長を務めていた野島稔(Minoru Nojima)が9日、肺がんのため亡くなった。76歳だった。国際派ピアニストとして活躍、教育者としても国際的な音楽コンクールの審査委員も歴任し、後進の育成に尽力した。
1945年、神奈川県横須賀市の生まれ。3歳からピアノを始め、その後、井口愛子氏に師事。小学校5年生で、ヴィルヘルム・ロイブナー指揮のNHK交響楽団と共演した。桐朋学園高校3年の1963年、第32回日本音楽コンクールで第1位を獲得して注目を集めた。
1966年から旧・ソ連政府に招かれてモスクワ音楽院に留学、名ピアニストとして知られたレフ・オボーリンに師事した。1969年に行われた米国の第3回「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」で第2位に入賞。翌1970年にニューヨークのカーネギー・ホールでデビューし、国際的なキャリアをスタートさせた。
研ぎ澄まされたテクニックに支えられた透明でやわらかい音色を紡ぎ出すことで知られ、米国のレーベルからリリースされた1986年録音の『ノジマ・プレイズ・リスト』、1989年録音の『ノジマ・プレイズ・ラヴェル』がその超絶技巧と圧倒的な表現力で話題を呼び、国際的な評価を確立した。
仙台国際音楽コンクールをはじめ、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール、ベルギーのエリザベート王妃国際コンクールなど多数のコンクールで審査員を歴任。2006年には、自らが審査委員長を務める「野島稔・よこすかピアノコンクール」を横須賀芸術劇場で創設。この5月にコロナ禍の収束で4年ぶりの開催が予定されていた。
写真:Tokyo College of Music
訃報 〓 野島稔(76)日本のピアニスト
2022/05/11
【最終更新日】2023/02/06
- コメント: 0
この記事へのコメントはありません。