ピアニストのフジコ・ヘミング(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko)が4月21日、すい臓がんで亡くなった。92歳だった。テレビのドキュメンタリー番組で、さまざまな困難に遭いながらも挑戦を続ける姿に共感が集まり、リストの《ラ・カンパネラ》の演奏など、遅咲きのピアニストとして「フジコブーム」を巻き起こした。
父親がスウェーデン人の画家・建築家、母親が日本人のピアニストという家庭に育ち、本名はゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ。5歳の時に家族で日本に移住したが、父親は日本に馴染めず、戦争が始まる直前に単身で帰国した。その後、母と弟の三人という苦しい生活の中で、母親の大月投網子からピアノを学んだ。
16歳の頃に中耳炎の悪化で右耳の聴力を失うも、17歳でコンサート・デビュー。その後、東京藝術大学に進み、在学中の1953年に第22回「NHK毎日コンクール=現在の日本音楽コンクール」に入選、翌年には第2位に入賞した。その後、本格的な音楽活動に入り、国内のオーケストラとの共演も始まり、ドイツへの留学をめざした。
ところが、パスポートの申請時、スウェーデンにも日本にも国籍のない無国籍だったことが発覚。留学は1961年、ウィルヘルム・ハース駐日西ドイツ大使の助力により、西ドイツ赤十字社に認定された難民としてドイツに渡るまで実現しなかった。28歳での留学で、現地では苦学しながら国立ベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で学んだ。
その間、ウィーンでの後見人だったパウル・バドゥラ=スコダに師事。また、作曲家で指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約。しかし、リサイタル直前に風邪をこじらせて左耳の聴力も失うというアクシデントに見舞われて大きなチャンスを逃す。失意の中でストックホルムに移住。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続けた。
1995年、母の死をきっかけに海外生活に終止符を打って帰国。1999年にNHKのドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの軌跡」が放送され、波乱に富んだ人生と再起にかける日々を追った番組は大きな反響を呼び、「フジコブーム」が巻き起こる。直後にリリースされたデビュー・アルバム『奇蹟のカンパネラ』は200万枚以上を売り上げ、クラシック界異例の大ヒットとなった。
それを受けて、1999年10月の東京オペラシティ・コンサートホールでの復活リサイタルを皮切りに本格的な音楽活動を再開。リストとショパンの演奏は高く評価され、郷愁を帯び、聴く者をゆったりと包み込むような暖かいその音楽が多くの人を魅了した。内外の著名なオーケストラとの共演も多く、90歳を過ぎても精力的に演奏活動を展開していた。
また、2003年には波瀾万丈の半生がテレビドラマ化され、2018年には音楽ドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』が公開され、この10月にもドキュメンタリー映画『恋するピアニスト フジコ・ヘミング』の公開も控えていた。昨年11月に自宅で転倒、この3月にはすい臓がんと診断されて療養していた。
写真:Universal Music / Decca
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訃報 〓 フジコ・ヘミング(92)スウェーデン・日本のピアニスト
2024/05/02
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