中国出身で英国に亡命して活動を続けていたピアニストのフー・ツォン(=Fou Ts’ong / Fù cōng / 傅聡)が28日、ロンドン市内の病院で新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。86歳だった。1955年の第5回ショパン国際ピアノ・コンクールでアジア人として初めて入賞した(第3位)。
フーは1934年、中華民国時代の上海生まれ。上海芸術大学教授を務めた翻訳家・文学者のフー・レイ(傅雷)を父に持ち、上海交響楽団創設者でもあるイタリア人指揮者マリオ・パーチにピアノの手ほどきを受ける。1953年にワルシャワ音楽院に留学、ズブグニェフ・ジェヴィエツキに師事した。
1955年のショパン国際ピアノ・コンクールまではまったく無名に近かったが、第3位入賞と同時にマズルカ賞も受賞した。この年のコンクールでは、田中希代子が第10位で日本人初の入賞を果たす一方、第1位がポーランドのアダム・ハラシェヴィチ、第2位がウラディミール・アシュケナージという結果に審査員のミケランジェリが退場するという騒ぎも起きている。
その後、東欧を中心に演奏活動をスタートさせたが、本国から帰国を促されたことから1959年に25歳の時にポーランドから英国へ亡命した。中国では1958年から後に大飢餓を招く「大躍進」政策が始まっており、インテリ層への迫害も始まっていた。亡命時の旅費、ロンドンでの生活費は8歳年上でパリを拠点に演奏活動をしていたピアニストのジュリアス・カッチェンが助けたという。
その後、ロンドンを拠点に活動を展開。モーツァルト、ショパン弾きとしてならし、「ピアノの詩人」と呼ばれることも。文豪ヘルマン・ヘッセからは「フー・ツォンのショパン、それはまさに奇跡だ」と絶賛された。マルタ・アルゲリッチやダニエル・バレンボイム、レオン・フライシャーやラドゥ・ルプーと親しく、別府アルゲリッチ音楽祭にも客演している。
1960年にヴァイオリニストのユーディ・メニューインの娘であるザミラと結婚、男児をもうけた。彼女とは1969年に離婚、その後、上海生まれで英国で活動していたパツィー・トウ(卓一龙)と再婚している。「大躍進」後の1966年から始まった「文化大革命」の中で、知識人階級の両親が迫害され、自殺に追い込まれる悲劇に見舞われたが、1982年に北京中央音楽学院のピアノ部門の非常勤教授に就任。その後、講義や演奏のために母国を訪問していた。
写真:VCG
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