米国で最も多作な作曲家の一人で、ピューリッツァー賞を受賞したネッド・ローレム(Ned Rorem)が11月18日、ニューヨーク・マンハッタンの自宅で亡くなった。99歳だった。姪のメアリー・マーシャルが死亡を確認したが、死因は明らかにされていない。
自ら最高傑作に挙げた1998年の歌曲集《見えないものの証拠》をはじめとする500曲以上の歌曲、3つの交響曲や多くの室内楽を作曲。代表作に1947年の声楽と管弦楽四重奏のための《サミュエル書よりのかなしみの場面》、1965年のオペラ《令嬢ジェリー》があり、管弦楽組曲《エア・ミュージック》で1976年にピューリッツァー賞を受賞した。
インディアナ州のリッチモンド生まれ。シカゴで父親は医療経済学者、母が反戦活動家という家庭に育ち、ノースウェスタン大学を経て、カーティス音楽院でメノッティに、ジュリアード音楽院でトムソンに師事。タングルウッド音楽センターではコープランドにも師事している。
1949年にパリに渡り、その後、モロッコに滞在(1951-1957)。帰国後はバッファロー大学を経て、ユタ大学で客員教授を務めた。門下にはダロン・ヘイゲンやデヴィッド・ホーンらがいる。
作曲家活動の一方、1966年に自らの同性愛について赤裸々に語った『パリ日記』を出版、物議を醸したことでも知られる。日記はその後も12冊以上出版され、刺激的な文化批評、ゲイ社会や芸術家のサークルの機敏を描いて大きな反響を呼んだ。
また、1967年の『ミュージック・フロム・インサイド・アウト』」、1983年の『セッティング・ザ・トーン』、1996年の『アザー・エンターテイメント』など、評論集も数多く出版しており、数多くの著作を通じて、同時代の作曲家に対する辛口の批評でも知られた。2000年から2003年まで米国芸術文学アカデミーの会長も務めた。
写真:Open Road Media
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