ピアニストのマルタ・アルゲリッチ(1941- )は大変な親日家で知られ、自らの名を冠した音楽祭「別府アルゲリッチ音楽祭」を日本で20年以上続けている。友人でピアニストの伊藤京子がアルゲリッチに対し、当時の市長に頼まれ、大分県別府市に完成したビーコンプラザ・フィルハーモニアホールの名誉音楽監督就任を依頼したことに端を発している。
現代最高のピアニストの一人であり、あらゆる都市から請われて世界中を忙しく飛び回っている彼女のこと。別府という一地方都市の願いに対し、音楽祭の公式ホームページには「まさか受諾するわけがない、と考えていました」とある。それが…。「大半の予測を覆してアルゲリッチは快諾したのです」と相成った。この快挙が起きたのは、1994年10月のことである。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。翌1995年には、そのビーコンプラザ・フィルハーモニアホールで、長くソロ演奏をしていなかったアルゲリッチが、およそ10年ぶりにソロのリサイタルを行ったのである。その話は、この《音楽祭の記憶》の「ヴェルビエ音楽祭2007」にも書いた。つまり、彼女は“本気”だったというわけだ。
以後、プレ・コンサートなどの周到な準備を経て、1998年に音楽祭はスタートすることになった。ギドン・クレメール、ミッシャ・マイスキーやユーリー・バシュメット、小澤征爾など、アルゲリッチと親交の深い一流音楽家も来訪。室内楽曲からオーケストラ曲までバラエティーに富んだプログラムが組まれ、また、子どもたち向けのコンサートやマスタークラスなど、音楽を通じて人や地域を育んでいくことも大切なテーマとしてきたことは特筆される。
さて、その最初期に繰り返し参加していたアーティストの一人に、イスラエルの伝説的ヴァイオリニスト、イヴリー・ギトリス(1922-2020)がいる。当時、既に80歳近い高齢だったが、一度聞いたら忘れられないような個性的な音色と大胆な解釈で知られており、アルゲリッチとのデュオはまさに大家同士ががっぷり四つに組み合った「世紀の競演」というに等しい出来事だった。
二人の音楽祭における共演は、第1回(1998年)のベートーヴェン、そして、第2回(1999年)のフランクのヴァイオリン・ソナタがライブ録音で残っている。ともに極めてエキサイティングな演奏だが、今回はより個性的なフランクの方を選ぼう。冒頭のテーマからして、ギトリスの演奏はまさに変幻自在。賛否両論あるとは思うが、聞き慣れた旋律が、今そこで初めて生まれてきたように聞こえる面白さは他では決して得られない。
それに応えるアルゲリッチのピアノも、まったく手加減なし。奔放とも言える自在な緩急で、曲の持つファンタジーを縦横に羽ばたかせている。特に曲が入り組んでいく箇所ほど二人の演奏は熱を帯び、何か特別なことがそこで起きているという雰囲気がホール内に広がっていく。それでいて、アンサンブルとしてはギリギリのところで成立しているその不思議さ!
ちなみに音楽祭の正式名称は、「MUSIC FESTIVAL Argerich’s Meeting Point in Beppu」だ。「アルゲリッチの出会いの場」との言葉通り、伊藤京子、世界のアーティスト、別府市民、そして音楽祭に集う人々…。人と人とが出会うことから生まれる一回限りの「奇跡」の瞬間が、まさにこのアルバムには記録されている。
2020年から新型コロナ・ウイルスの感染拡大で音楽祭も2年続けて中止を余儀なくされたが、今年2022年は5月の連休から無事にスタートしている。昨年、大分県ではアルゲリッチの功績を称え、彼女の誕生日の6月5日を「マルタ・アルゲリッチの日」に制定したのだという。その日に向けて、また新しい出会いが紡ぐ音楽が別府の街に響き渡ることだろう。
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……… アルバム情報
● 別府アルゲリッチ音楽祭ライヴ『奇蹟のライヴ』
・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番
「クロイツェル」 イ長調 作品47
・フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調
ヴァイオリン:イヴリー・ギトリス
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
録音時期:1. 1998年11月 / 2. 1999年11月(デジタル)
録音場所:別府, ビーコンプラザ・フィルハーモニアホール