ライプツィヒ生まれのピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスは我々の少し上の世代にとって、ベートーヴェン演奏の権威と信じられてきた。彼はこの作曲家のピアノ・ソナタ全集を老舗レーベル「Decca」にモノラル(1950-1954)とステレオ(1958-1969)で残しており、当時、世間では「鍵盤の獅子王」とも呼ばれていた。

ただ、その頃に比べるといまは、これらの全集を決定盤扱いするようなことがなくなっている。確かに作品解釈はオーソドックスで、緩徐楽章では銘器ベーゼンドルファーが紡ぎ出す典雅な音色もあいまって滋味あふれる演奏。一方、急速楽章のテンポは不安定で、速いパッセージでは(例えば《悲愴》の終楽章など)どんどんとアッチェレランドしていく癖がある。

今の耳で聞くと、そこに規範性やスケールの大きさを期待するには、ちょっと神経質に過ぎるかも。最近、彼の生前の放送録音がいくつか発掘されているが、それらを聞く限りでは、バックハウスはむしろライブの方が良いのではないかと思うようになった。

この盤で聞くことのできる1959年のブザンソン音楽祭でのリサイタル録音は、オール・ベートーヴェン。しかも後半の演目は、大曲《ハンマークラヴィーア》だ。彼は、この曲のスタジオ録音を一度しか残していないので、ステレオ盤の全集ではモノラルの音源(1952)で代用している。その意味で、このライブの《ハンマークラヴィーア》は貴重である。音質もモノラルながら、既出の同曲録音よリずっと豊かに響く。

バックハウスはこの曲の冒頭の変ロ長調の和音の連打を、スタジオ録音と同様にややゆっくり目に始める(おそらく彼はこの始まりを一種の序奏と解釈している)。が、続く短い音符のパッセージからテンポをあげてくる。ただし、ここでは演奏の勢いが勝っていて、不安定ということはない。第2楽章のスケルッツオにおける重音の連打にはさすがに「獅子王」の貫禄が感じられるが、第3楽章は一転、優しくも抑制された表現に徹している。まるで春の夜に野を行く孤独な一人旅のようである。

さらにその後に続く最終楽章のフーガでは、全体を10分弱で弾き切っていて、聞き手は息をするのも辛い。ポリーニでも12分台。ソコロフのライブは13分台。最近人気のリフシッツに至っては同じ楽章を14分46秒で弾いているのだから、この演奏の速さはどうだろう。結果、その音楽は決してわかりやすくはないものになっている。

評論家の吉田秀和氏によれば、バックハウスは聴衆受けするテンポ・ルバートの多用は嫌っていたらしい。つまり、聞き手を良い気持ちにするため、あるいは速いパッセージを弾きやすくするためといった理由で、自分の都合でテンポを落とすなどということは、まったくこの人の頭にはないのだ。巨大かつ難解な音楽と正面から格闘している演奏家の生の姿がここには記録されていて、そのひたむきさには正直頭が下がる。

前半のプロでは、第6番、第7番、そして第14番《月光》が弾かれている。後者では、すっきりした造形の両端楽章の間に、極めて柔らかいタッチのアレグレットを置くことで、バックハウスならではの《月光》となっている。


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……… アルバム情報

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集

[Disc1]
 ● ピアノ・ソナタ第6番
 ● ピアノ・ソナタ第7番
 ● ピアノ・ソナタ第14番《月光》

[Disc2]
 ● ピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》

ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

録音方式:モノラル
録音場所:1959年9月16日, ブザンソン音楽祭

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