20世紀を代表する指揮者の一人であるオットー・クレンペラー(1885 – 1973)。彼が戦後初めてザルツブルク音楽祭に出演した折のコンサート放送の一部始終が、最近オーストリア放送協会の資料館から発見され、没後50周年企画として今年1月に発売された(Otto Klemperer Film)。
彼はユダヤ系ドイツ人であったことから、1933年にナチスが政権を掌握するとドイツを出国し、チューリッヒに向かうことになる。その後、アメリカでロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任してからも、彼は度々、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれて客演。が、1938年のオーストリア併合以降はそれも難しくなり、彼が再びそのの指揮台に立つには、戦後1947年まで待たねばならなかった。
その復帰演奏会で、彼は戦時中にドイツ・オーストリアで演奏が禁止されていたグスタフ・マーラーの交響曲第4番を指揮した。クレンペラーはマーラーの直弟子であり、彼の推挙で指揮者としてのキャリアをスタートしている。同じく弟子であったブルーノ・ワルターとともに、師の音楽の紹介に務めていた指揮者の一人でもある。
第4交響曲は、比較的小ぶりな曲の規模といい、メルヘン風の曲調といい、まだ戦争の傷跡の癒えていないこの時期には、マーラーを改めて紹介するには相応しい曲とクレンパラーは考えたのかもしれない。彼にはこの曲の録音が5、6種残るが、このザルツブルクでの演奏が最も初期のものにあたる。
クレンペラーの演奏は、晩年には遅いテンポによるいかにも巨匠風の演奏が多くなるのだが、若い時分にはむしろ即物的で快速調の演奏が多かったと言われている。この演奏でも、当時60歳代前半であったクレンペラーの指揮ぶりは、まだまだアグレッシブである。第1楽章では、明確に付けられた緩急の幅が、音楽の形式・構造を真っ直ぐに聴き手に伝えてくる。
彼はマーラー自身の指揮を直接聞いていて、マーラーが採るテンポについては、「厳格そのもの」とか「これ以上でもこれ以下でもありえないと感じる」と述べている。そうした点から考えると、この時期の彼のストレートかつ規範的な演奏には、まだ師の影響の名残りが認められるとは言えないだろうか。
一方で、軽快な第2楽章や続く第3楽章では、ウィーン・フィルの甘い弦の音色もよく表出されている。こういうクレンペラーもかなり珍しい。終楽章におけるソプラノ独唱には、ウィーンの名花ヒルデ・ギューデンが迎えられ、可憐な美声を披露していて、文字通り聞く者を天国的な風景に誘う。
ちなみにこの時の演奏会では、マーラーの他に、ヘンリー・パーセルの《妖精の女王》組曲、アメリカの作曲家ロイ・ハリスの交響曲第3番が演奏されている。ハイファイではないし、ディスク録音に付き物の周期ノイズも時折混じるが、この時期のものとしては、録音自体は決して悪くない。戦後すぐのザルツブルク音楽祭における、ある種の、高揚した雰囲気を、後世に伝える貴重なドキュメントになっている。
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……… アルバム情報
1947年ザルツブルク音楽祭ライヴ
Disc1
● パーセル:組曲『妖精の女王』(ハロルド・バーンズ編)
● ハリス:交響曲第3番(1939)
Disc2
● マーラー:交響曲第4番ト長調
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ:3)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
オットー・クレンペラー(指揮)
録音時期:1947年8月24日
録音場所:ザルツブルク、祝祭劇場
録音方式:モノラル(ライヴ)