モーツァルトの劇作品の中で、このところ上演が増えているものに《皇帝ティートの慈悲》がある。《魔笛》と並んで「最後の年」を飾る大作ながら、長く不当に軽く扱われてきたと言ってもいい。それが今世紀になってからは、舞台実況のDVDや全曲盤CDが相次いでいる。近年では、2017年のザルツブルク音楽祭のプロダクションが記憶に新しい。演出にピーター・セラーズ、現在最も旬な指揮者であるテオドール・クルレンツィスが起用され、斬新なパフォーマンスは大きな話題となった。

「ティート」とは、実在した古代ローマ皇帝、ティトゥスのこと。1979年に神聖ローマ皇帝のレオポルト2世がプラハで挙行したボヘミア王としての戴冠式を祝う祝典劇として作曲されたのだが、こうした歴史劇、いわゆる「オペラ・セリア」は、当時としては少し時代遅れの感があったと思われる。

また、《魔笛》と並行して作曲が進められていて、多忙なモーツァルトはこの曲を18日間で書き上げざるを得なかったという。実際、登場人物の語りの部分(=レチタティーヴォ・セッコ)の作曲は、弟子のジュースマイヤーに任せたらしい。そうした事情もあり、研究者の間でも「にわか作り」、登場人物も「作り物めいている」などと低評価が続いてきたわけである。

その復権にあたって、大きな役割を果たしたのが、ブルガリア出身のメゾ・ソプラノ歌手、ヴェッセリーナ・カサロヴァであることは、おそらく衆目の一致するところだろう。彼女は2000年頃から多くの上演で、この歌劇の中に登場するセストという青年役を演じ、高い評価を得てきた。

このセストという役柄、音楽学者のアルフレート・アインシュタインが『モーツァルト』という著作の中で「恋着と後悔のでくの坊にとどまっている」と評したように、どちらかと言えば受け身の人物として受け取られていた。東京書籍の『モーツァルト事典』には「善良だがどこか気弱なところのある青年貴族で,その性格をヴィテッリアに利用される」とあり、そのあたりが一般的な解釈だったろう。

カサロヴァは、その「でくの坊」の役を、深みのある声と卓越した技巧、そして、何よりも見るものを圧倒する存在感でもって、今に生きる血の通った青年として舞台上に蘇らせた。評論家の堀内修氏は「ドラマとしてのポイントは、現在では、慈悲深いティートの悩みより、セストの愛と友情に悩む心理的葛藤だろう」と2005年に書いたが、少なくとも彼女がセストを歌った《ティート》を見た者は、誰もがこの役に魅せられるに違いない。

もし、「カサローヴァのセストって、そんなに画期的だったの?」と思われる方は一度、“彼女以前”の録音、映像をご覧になることをお勧めしたい。例えば、レヴァイン盤(1980)、エストマン盤(1987)で第1幕の、セストがヴィテリアの前で歌うアリア“私は行く、でも、いとしいあなたよ”を聴いて欲しい。カサロヴァの歌と演技を知った今、80年代のそれらがまるで「T塚」の舞台でも見ているかのような「甘さ」にびっくりするのではないだろうか。

カサロヴァの話で紙幅が尽きそうだが、彼女のセストを鑑賞するためには、2003年のザルツブルク音楽祭のライブDVDが最適だ。指揮はニコラウス・アーノンクール。慣習に流されずダイナミックにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を鳴らしている。他の配役も、ティートにミヒャエル・シャーデ、ヴィテリアにドロテア・レッシュマン、セルヴィリアにバーバラ・ボニーという、当時考え得る最高のキャストが揃っている。

同じ舞台でアンニオ役を演じたメゾ・ソプラノのエリーナ・ガランチャは、後にセストをメトロポリタン歌劇場の大舞台で演じ、スターダムにのし上がった。また、現代最高のメゾの一人、ジョイス・ディドナートもヤニック・ネゼ=セガン指揮の《ティート》の録音(2017)で歌っている。こうして、セスト役がメゾ・ソプラノ歌手の大役として脚光を浴びるきっかけとなったことを見ても、カサロヴァの功績は大きかったと言わざるを得ないだろう。


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……… アルバム情報

モーツァルト:歌劇《皇帝ティートの慈悲》

 演出:マルティン・クーシェイ

 ・ティート:ミヒャエル・シャーデ
 ・ヴィテリア:ドロテア・レーシュマン
 ・セルヴィリア:バーバラ・ボニー
 ・セスト:ヴェッセリーナ・カサロヴァ
 ・アンニオ:エリナ・ガランチャ、他

 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ニコラウス・アーノンクール(指揮)

   録音時期:2003年8月(デジタル)
   録音場所:ザルツブルク, フェルゼンライトシューレ


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