マルタ・アルゲリッチ(1941- )と言えば、ショパンはもとより、シューマン、ラフマニノフ、あるいはラヴェルといったロマン派の作品に本領があるだろう。だが、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンといった古典派の協奏曲録音にも名盤があるし、曲数こそ限られるが、バッハやスカルラッティも見事に弾きこなす。稀有な才能を持つピアニストの一人と言えるだろう。
2018年に『レコード芸術』誌で、音楽評論家30人による「世界のピアニスト・ランキング2018」という投票企画があり、そこで彼女は全体ランキングで第4位、現役だと第1位だった。ちなみに全体ランキングの第1位から第3位は、ホロヴィッツ、リヒテル、ルービンシュタイン。もはや伝説の巨人たちであり、アルゲリッチに次ぐ第5位がなんとミケランジェリだから、いかに彼女に対する評価が高かったか、それがわかるというものだ。
ただし、このように高い世評を得ていながら、現在の彼女は、基本的に「ソロでは弾かないソリスト」という一見奇妙な立ち位置にある。<(1970年の)初めての来日から十四年後の一九八四年十月三十日、昭和女子大人見記念講堂でのリサイタルを最後に、アルゲリッチは………ごくわずかな例外を除いて………ソロのリサイタルを開くのをやめてしまった>=青柳いずみこ著『ピアニストが見たピアニスト』。
その理由としては本人曰く、「ステージで一人でいるのが嫌なの。自分の中に閉じこもってしまうような感じになる」から。共演者がいる協奏曲や室内楽は大丈夫だ。ところが、「ソロではダメ。監視カメラでずっと追われているような感じで、身動きできなくなってしまう」。ちなみに、こうしたアルゲリッチの心の葛藤については、彼女のキャリアを追って詳細な検討を加えた青柳の著書の中の「ソロの孤独」の章に詳しいので、ここでは繰り返さない。
ソロ・リサイタルこそ開かないアルゲリッチだが、彼女は日本のピアニスト、伊藤京子や海老彰子とも親しい関係で、日本ではよく演奏をしている。その中でも、自らの名を冠した「別府アルゲリッチ音楽祭」は1998年に本格的に始まり、2022年で22回を数える。実は別府では1995年9月8日に音楽祭のプレ・コンサートが行われていて、なんとそれは彼女の11年ぶりのソロ・リサイタルだったという。
その珍しいリサイタルで最初に弾かれた曲が、ロベルト・シューマン作曲《子供の情景Op.15》の第1曲「見知らぬ国と人々について」。当初の発表では、バルトークの《組曲Op.14》だったらしいが、急に変更されたという。この時のライブは録音が残ってないが、《子供の情景》については、彼女が2007年7月にスイスのヴェルビエ音楽祭で全曲を弾いている。それがCD化されているので聴いてみたい。
この曲をアルゲリッチは1983年、同じ作曲家の《クライスレリアーナOp.16》とともに「ドイツ・グラモフォン」に録音している。瑞々しいピアニズムに深い夢想を共存させた演奏は、今でも両曲の代表盤として聞き継がれている。それに比べ2007年の《子供の情景》は、即興的にテンポを動かし、ルバートを多用、さらに速いパッセージはより鮮やかにという具合で、幾分、“外世界=ステージ寄り”のところで弾かれている。
ちなみに2006年以降、彼女はこの曲または「見知らぬ国と人々について」を数回にわたって披露している。ソロを弾かないピアニストが、時折弾くソロ曲がこの《子供の情景》であることには、やはり何か深い意味・思い入れがあるはずだ。本人の言葉に従えば、この曲を弾いている際には「孤独」を感じないで済んでいるのかもしれない。彼女がこの世界で、自分が自分でいることができる数少ない「マザーランド」なのだろうか。
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……… アルバム情報
● ヴェルビエ音楽祭2007-ライヴ
● ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第5番 Op.70 No.1『幽霊』
ジュリアン・ラクリン(Vn)
ミッシャ・マイスキー(Vc)
マルタ・アルゲリッチ(P)
● シューマン:子供の情景 Op.15
マルタ・アルゲリッチ(P)
● シューベルト:ロンド D.951
マルタ・アルゲリッチ(P)
ラン・ラン(P)
● ラヴェル:マ・メール・ロワ(ピアノ・デュオ版)
マルタ・アルゲリッチ(P)
ラン・ラン(P)
● シューベルト:アルペジオーネ・ソナタ D.821
ユーリ・バシュメット(Va)
マルタ・アルゲリッチ(P)
● バルトーク: ヴァイオリン・ソナタ第1番 Sz.75
ルノー・カプソン(Vn)
マルタ・アルゲリッチ(P)
● ルトスワフスキ: パガニーニの主題による変奏曲
マルタ・アルゲリッチ(P)
ガブリエラ・モンテーロ(P)
● リリー・マイスキーのための「ハッピー・バースデイ」(アンコール)
ガブリエラ・モンテーロ(P)
録音時期:2007年7月
録音場所:ヴェルビエ, サル・メドラン
録音方式:ステレオ(ライヴ)