2016年春、3か月前に引退を表明していた指揮者のニコラウス・アーノンクールが86歳で急逝したというニュースは、楽界に大きな喪失感を与えた。2020年、うれしいニュースが飛び込んできた。彼が1988年の夏にヨーロッパ室内管弦楽団を率いてシュティリアルテ音楽祭に出演した際に収録されたシューベルトの交響曲全曲がオーストリア放送協会に残されていたというのだ。

シュティリアルテ音楽祭は、アーノンクールが自らが少年時代を過ごした街であるオーストリア・グラーツで主宰していた音楽祭で、1885年に創設された。その創世記にこのような意欲的なプログラムが組まれ、それを今、我々はこのように良い条件の録音で聞くことができる。これは、まさに僥倖という他ない。

アーノンクールが指揮したシューベルトの交響曲と言えば、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1992年)、そして、ベルリン・フィル(2003ー2005年)を起用した二つの全集セットが有名だ。共にヨーロッパ屈指の名門オーケストラとの録音だけに、極めてハイレベルな演奏が聞ける。だが、今回の小規模な室内オーケストラとの共演は、より彼らしい解釈を聞くにはうってつけのシチュエーションだろう(ICA Classics)。

実際、第1番の明るい序奏が、弾むようなリズムで歯切れよくニ長調の分散和音で始まっていく場面から、一味違う躍動感に満ち溢れている。既存の二つ全集では、重厚な弦に負けじと強奏される管楽器の響きが支配的なのだが、ここではそうした力みが感じられない。クリアな響きは、曲の微妙なテクスチャーを赤裸々に伝えていて、緩徐楽章での表現も自然なやさしさに満ち溢れている。

ところで、ヨーロッパ室内管弦楽団はクラウディオ・アバドにより設立された団体だが、そのアバドとは、1986ー87年にシューベルトの交響曲全集を録音していた(DG)。この録音にあたってアバドは、ウィーン楽友協会の資料部長であったオットー・ビーバー博士の助言を受け、シューベルトの自筆譜を参照。楽団のメンバーであったステファーノ・モッロの協力を得て、独自の版を用意して録音に臨んだことが、ライナーノーツなどで報告されている。

というのも、それ以前のシューベルトの交響曲演奏は、19世紀末にヨハネス・ブラームスにより校訂された旧「シューベルト全集」を元にした慣用版の楽譜が使われていた。それは基本的には、シューベルトが書いた自筆の譜面等を元に印刷されたものなのだが、今ではそこに間違い、あるいは故意の修正が多く含まれていたことが知られている。

有名なところでは、「>」という記号で表される「アクセント=その音を目立つように強調する」を、シューベルトは松の葉っぱのように横に長く書く癖があり、これはほとんどの場合、音をだんだんと弱くする「デクレシェンド」として印刷されていた(厳密には、アクセントなのかデクレシェンドなのか、学者によっても意見が分かれている箇所もある)。

また、交響曲第4番の第1楽章の提示部の終わり、また、第6番の第1楽章の再現部などには、まったくの他人によるフレーズの追加があったり、逆に第6番では、第1楽章の展開部の始めの部分に、シューベルトが削除を指示した小節が残されていたりする。アバドの全集が画期的だったのは、それらの慣用譜の誤りを自筆譜に遡って正したところにある。

その直後に敢行されたアーノンクールとの全曲演奏でも、上に挙げたような箇所はきちんと修正されている。その一方で、第8(9)番《グレイト》の第2楽章冒頭でのオーボエ(クラリネット)の旋律修正や、第3楽章主部途中の2小節の削除部を復活させることはやっていない。これはこれで独自に資料にあたって検討し直した結果であろう。そうした解釈の違いを追うことは、非常におもしろい。

つまり、これはアーノンクールによる三つ目の全集というだけでなく、ヨーロッパ室内管弦楽団の二つ目の全集という点でも、興味が尽きない。ちなみに、この全集は2020年11月の発売だが、2021年10月にもヨーロッパ室内管弦楽団の40周年記念盤として、アーノンクールとのライブ集(4枚組)が発売されている。これにも、シュティリアルテ音楽祭の音源からハイドン、モーツァルト、ブラームスなどの交響曲が含まれており、あわせて視聴をお薦めしたい。


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……… アルバム情報

シューベルト:交響曲全集

●シューベルト:交響曲全集
 Disc1
  1. 交響曲第1番ニ長調 D.82
  2. 交響曲第2番変ロ長調 D.125
  3. 交響曲第3番ニ長調 D.200
 Disc2
  4. 交響曲第4番ハ短調 D.417《悲劇的》
  5. 交響曲第5番変ロ長調 D.485
 Disc3
  6. 交響曲第6番ハ長調 D.589
  7. 交響曲第8番ロ短調 D.759《未完成》
 Disc4
  8. 交響曲第9番ハ長調 D.944《グレート》

 ヨーロッパ室内管弦楽団
 ニコラウス・アーノンクール(指揮)

 録音時期:1988年7月3日(1,5)、5日(2,4)、8日(3,7)、10日(6,8)
 録音場所:グラーツ、シュテファニエンザール(シュティリアルテ音楽祭)
 録音方式:ステレオ(ライヴ)


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