20世紀最高のバリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925-2012)は、生涯で千枚を超えるレコードを残したと言われる。これは歌手としてだけでなく、一音楽家としても破格の数だろう。それもオペラ、歌曲、宗教曲など幅広いジャンルを網羅。ドイツ語はもとより、イタリア語、フランス語、英語、ロシア語など、いずれの言語でも卓越した歌唱能力とビロードのような美声を駆使し、いくつもの名演を世に送り出してきた。

その多数のレパートリーの中で、最も代表的と言える作品を一つ挙げるとしたら、やはりシューベルトの歌曲、それも作曲者晩年の連作歌曲集《冬の旅》を選ぶのは、あながち間違いではないだろう。彼はシューベルトの歌曲に関する浩瀚な著書『シューベルトの歌曲をたどって』の中でこう書いている。「この作品にシューベルトのすべてを見出すことができるという発言を、ばかげていると感じる人はもはやいないであろう」。

彼は、1950年代半ばから70年代初頭にかけて、稀代の名伴奏者ジェラルド・ムーアとともにEMIに2種、ドイツ・グラモフォンに1種、セッション録音を残している。これらは若々しい声の張りと美しさ、精緻を極めた解釈、そして歌手・伴奏者の一体性という面で極めて完成度の高いレコードである。特に最後のものは「シューベルト歌曲大全集」という記念碑的アルバムに収められたもので、この曲の演奏における一種の<規範>とも言うべき出来となっている。

とはいえ、名歌手のこの曲集を巡る“旅”が、それで終わりを迎えたわけではない。その後、彼は時代を代表するピアニストたちと、まさに一期一会とも言える録音を残している。1979年にはダニエル・バレンボイムと、1979年&1985年にはアルフレッド・ブレンデルと、そして歌手としてのキャリアの最後に近い時期である1990年にはマレイ・ペライアと、いう具合に。

共演した有名ピアニストは、実はもう一人いる。イタリア人ピアニストのマウリツィオ・ポリーニだ。1978年のザルツブルク音楽祭で世紀の共演は実現したのだが、これは意外な人選だった。ポリーニはこの時、36歳。シューベルトのピアノ独奏曲こそ一部録音していたものの、歌手や器楽奏者の伴奏は決してやらない人だったからである。

第1曲の「おやすみ」のピアノによる序奏が始まっただけで、そのクリアーな音色に耳を奪われる。大抵の場合、夢の中の出来事のように奏される第5曲「菩提樹」等でも、曖昧さを廃した極めて明快な演奏を聞かせ、思わずピアノ・パートの方を聞いてしまう。無論、第4曲「氷結」や第18曲「嵐の朝」のようなダイナミックな曲では高い運動性を披露しているが、要所では彼には珍しくテンポ・ルバートも駆使する。全体としてかなり意欲的なピアノだ。

このポリーニの演奏を「伴奏の範疇を超えている」と断ずるのは簡単だ。だが、彼のピアノに触発されたように、フィッシャー=ディースカウも、彼の持ち味である端正さ、正確性を減じることも辞さず、極めて振幅の大きいシューベルトを聞かせているのもまた事実なのだ。その意味では、歌手とピアニストとが対等に張り合ってこそ生まれた名演と言える。

フィッシャー=ディースカウはレコード録音の有益性も認めながら、こう付け加えている。「いちど記録された演奏というものは、その瞬間を、その歌手の個性というものを捉えはしても、常に新しく、生きている解釈を捉えることはできず、それ以上のものではなからである」。

まさにその言葉通り、この大歌手はその後も、名ピアニストたちと新たな《冬の旅》の可能性を突き詰めていくことになった。このポリーニとの演奏は、その嚆矢となった貴重な一夜を捉えていると言う点でも、記録に残るべき稀有なドキュメントになっている。


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……… アルバム情報

● シューベルト:『冬の旅』全曲
・シューベルト:『冬の旅』全曲

 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
 マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)

 録音時期:1978年8月23日
 録音場所:オーストリア・ザルツブルク, 祝祭小劇場
 録音方式:ステレオ(ライヴ)


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