クラシック音楽ファンなら多くの方が考えるだろう“夢”の一つに、前世紀の巨匠指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の実演を聴いてみたい、というものがある。しかし、故人となっている今となっては絶対にかなわぬ話。だとすれば、せめて状態の良い録音で彼の音楽を聞きたいと思うのは当然だ。

そこで跋扈してきたのが、ある種のゴシップめいた伝説。「フルトヴェングラーのステレオ録音が残されていた」という話で、これまでにも「スカラ座のリング」や「ザルツブルクの魔笛」など何度もその噂が出ては、結局は発売されなかったり、「疑似ステレオ」という判定を下されたりしてきた。

ただ、そうした中で、かなり以前から繰り返し「ステレオ録音ではないか」と噂されてきた音源がある。それが今回取り上げる1954年7月のザルツブルク音楽祭における《魔弾の射手》のライヴ録音だ。

フランスやイタリア、ポルトガルのレーベルからCD盤が出ていたが、2005年に「Tahra」レーベルが出したものには、堂々と「certainly in stereo」と書かれている。若干茫洋とした音場ながら、舞台上の台詞や騒音には曲がりなりにも確かにステレオ・プレゼンスが感じられる録音で、時にその生々しさにギョっとさせられる箇所もある。

ステレオ録音ということでは昨年末、我が国のキングインターナショナルが「ステレオの魔弾の射手」のCDを発売するというので、ちょっと驚いた憶えがある。発表資料によれば、1980年代にLP発売のためイタリアから送られてきていたマスターテープを再度精査したところ、RLチャンネルは別々のものだったことが判り、今回初めて「オリジナル・ステレオ録音」として再発売したのだそうだ。

また、こういう記録も残されていたという。「1953,54年のザルツブルク音楽祭ではフルトヴェングラー自身の提案によって、ステージ左右にセットされた3本ずつのマイクを通じて2チャンネルで収録されていた」。

これが事実なら、少なくとも正式なステレオ録音ではないものの、「2チャンネル録音」とは言えるわけで、その2つのチャンネルを同時再生することで、ステレオ効果が生じるのも不思議ではない。聴いてみた印象としては、確かに従来盤より安定した再生音で、広がりのある舞台空間が感じられる。

ところで、この上演を現地で聴いた故・吉田秀和は著書『世界の指揮者』の「フルトヴェングラー」にこう書いている。<一体に終始遅めおそめのテンポがとられていた中でも、前者の<花冠の歌>は、単におそいだけでなく全体としてピアノから、ピアニッシモの間ぐらいの声しか出させない。それ自体で、すでに、もう想い出のようなヴェールのかかった夢想的な演奏だった。あんなにきれいな<花冠の歌>は以来二度ときいたことがない。>

実演においても、どちらかといえば抒情的な場面の印象が強かったようだが、録音で聴いている我々はなおさらで、故・宇野功芳も著書『フルトヴェングラーの全演奏名盤』に<全曲を通じて、彼としては彫りが浅く、意味が弱い。抑制された表現を狙っているのだろうが、それがマイクに入りきっておらず、このオペラの活気や愉しさが出ていない。>と書いている。録音状態も相まって、「フルトヴェングラーなら、もっとやれるはず」という思いを持つ人がいるのも理解できる。

巨匠の録音と言えば、第二次世界大戦終戦間際のライヴや戦後の復帰演奏会ライヴなどの方に、聴き手を否応なしに陶酔に巻き込み圧倒するような力を(いわゆる、デーモニッシュな魅力を)感じてきた人が多いだろう。

確かにこれら一連のライヴ録音は、録音状態は極めて悪いものの、この世のものとも思えない凄まじい音楽を一度耳にすると、ついこう言いたくなるのもわからないではない。「フルトヴェングラーに比べれば、カラヤンなどその後の指揮者は、ハイファイのきれいな音の録音ばかり作って、ちっとも聴く者の心に届かない」云々……。

しかし、である。よくよく考えてみれば、当時の演奏会場であの録音に残されたままの歪んだ音隗が流れていたわけではない。決して。ザルツブルクのフェストシュピールハウスやベルリンのティタニア・パラストでは、まさにハイファイさながらの、美しい楽音が流れていたはずなのだ。

その意味では、この《魔弾の射手》の録音で聞くことが出来る最弱音の美しさや豊かな抒情性も、フルトヴェングラーの演奏における魅力の一つであるとは言えないだろうか。ステレオ録音か否かは別としても、最晩年の巨匠が到達した澄明な境地に、心を無にして耳を傾けてみるのも決して意味のないことではないだろう。


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……… アルバム情報

ウェーバー:歌劇《魔弾の射手》全曲

 アルフレート・ペル(オットカール)
 オスカル・チェルヴェンカ(クーノー)
 エリーザベト・グリュンマー(アガーテ)
 リタ・シュトライヒ(エンヒェン)
 クルト・ベーメ(カスパール)
 ハンス・ホップ(マックス)
 カール・デンヒ(キリアン)
 ヨーゼフ・グラインドル(隠者)他

 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

 録音時期:1954年7月26日
 録音場所:フェストシュピールハウス、ザルツブルク
 録音方式:ステレオ(ライヴ)


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