今回は映像もの。「クナッパーツブッシュ」という一風変わった名前の指揮者が、ワーグナーの《ワルキューレ》という劇作品の第1幕を、演奏会形式で振ったモノクロの映像である。1963年、ウィーン芸術週間におけるリヒャルト・ワーグナー生誕150周年記念特別演奏会の模様を伝えたもの。以前からビデオテープやCDでは出回っていたが、TDKが正式にDVD化していた。
「それのどこがいいの?」とおっしゃる方もあるかも。しかし、この当時の大指揮者の中で、ここまでまとまった内容の演奏映像が残っているのは、非常に珍しい。しかも、それがこの指揮者の十八番とされたワーグナーの歌劇で、カットなし一幕全曲の映像記録というのは、まず他にはないと思っていただきたい。
ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)は、ドイツのエルバーフェルトの生まれ。戦前はドイツやオーストリアの歌劇場で活躍したが、その名声が特に高まったのは戦後、1951年から1964年にかけて再開なったバイロイト音楽祭の中核を担ってからといえるだろう。
バイロイトでは主に《ニーベルングの指環》や《パルジファル》などを指揮。特に後者は1953年を除いてすべての年で指揮し、決定的な評価を得た。日本では、先年亡くなった音楽評論家の宇野功芳が、彼の個性的なワーグナーやブルックナーの演奏を、繰り返し取り上げ激賞したことで広く知られるようになった。付いた渾名は「怪物」。さて、どんな指揮姿なのか?
このDVDは、画質もかなり鮮明で、演奏の様子がよくわかる。指揮者はこの年、75歳。聴衆の拍手にもさっさと背を向け椅子に座り、やおら指揮を始める。基本的に最小限の動きで淡々と音楽を進めていく。奏者とはコンタクトをとって俊敏に指示は出すのだが、若い指揮者のように奏者に向かって満足そうに愛想を振りまいたりはしない。
ましてや、自らが夢中になって、腕をぐるぐる振り回したり足を踏み鳴らしたりして、音楽を駆り立てるようなところは絶対にない。ところが、肝心な箇所ではしっかり舞台全体を見渡し、さっと指揮棒をひらめかすと、そこでオーケストラは巨大な響きを紡ぎ出す、という具合である。
ここで演奏しているウィーン・フィルは、数あるオーケストラの中でも自らの音楽に高いプライドを持っていることで知られる。その彼らが、指揮棒のちょっとした動きに反応し、絶妙な音楽を奏でる様子がここには捉えられている。まさに「怪物」指揮者と呼ばれる所以がここにある。
しかも彼には、ある演奏会の練習でウィーン・フィルの面々に対して「この曲は諸君もよく御存知だし、私もよく知っている。だから、別に練習するにも当たるまい。今日はこれで帰る」と言ったという有名な逸話さえあるくらいだ。つまり、事前練習で緻密に打ち合わせたということでもないようなのだ。しかし、それでもこれだけの名演奏ができることの不思議さ!
改めて考えてみるまでもなく、指揮者というのは、自分では一切音を出さない奇妙な音楽家である。こういう演奏に出会うにつけ、指揮の技術、技法とはいったい何なのだろうと考えざるを得ない。一流の指揮者、一流のオーケストラだけが知る、秘密の領域がこの映像にはまざまざと捉えられているというべきだろう。
ちなみに巨匠とウィーン・フィルには、1957年にスタジオ録音による「ワルキューレ」第1幕というセッション録音があった。こちらは、ジークリンデにキルステン・フラグスタート、ジークムントにセット・スヴァンホルムという超一流のワーグナー歌手を起用している。
一方、本映像の歌手は、ジークリンデにクレア・ワトソン、ジークムントにフリッツ・ウールという布陣。貫禄ではレコードの二人に劣るものの、若々しい声はこの作品には相応しい。また、フンディング役のヨーゼフ・グラインドルは、時に語るようにドイツ語のセリフを操り、もの凄い存在感を放っている。
音楽的にはやはり、ジークムントがジークリンデと愛を語り合う最終場が一番の見所。ジークムントが自らに約束された名剣を抜き放つ場面で、巨匠はやおら立ち上がり、はっきりと顔を上げ、音楽のクライマックスを見据える。そして…。最後の金管楽器の斉唱を迎えると、巨匠の左手は高くまっすぐに天を指し、大団円を演出する。終幕後、アン・デア・ウィーン劇場に集った聴衆も大盛り上がりで、この日の特別演奏の感動を良く伝えている。
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……… アルバム情報
ウィーン芸術週間1963 ー クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
● ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》第1幕
ジークリンデ:クレア・ワトソン(ソプラノ)
ジークムント:フリッツ・ウール(テノール)
フンディング:ヨーゼフ・グラインドル(バス)
ハンス・クナッパーツブッシュ(指揮)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音時期:1963年5月21日
録音場所:ウィーン, アン・デア・ウィーン劇場
録音方式:モノラル(ライヴ)