父上に伝えろ

不当な仕打ちを慈悲で返せば

大きな満足を味わえるものなんだと

憎しみよりいい


とある物語に登場する国家指導者が、祖国も、富も、幸福も、すべてを奪った憎んでも余りある宿敵の息子を拉致した時、このような言葉で語りかけ、そして「許す」。許された者たちは、喜びの中に、こう歌う。

復讐ほど醜いものはない

人間らしく慈悲深くあれ

私欲にとらわれず人を許す

これぞ偉大な人のなせる業……


「憎しみの連鎖」を断ち切り、お互い許し合うことこそ人間らしいとする宣言……。誰が読んでも、21世紀の国際社会への警鐘のようにしか読めないこれらの台詞はいったい、何に登場するとお思いだろうか? 実はこれ、モーツァルトのジングシュピール(=セリフ入りのオペラ)、《後宮からの逃走》のDVDの字幕から引用したものだ。

そのDVD、1997年のザルツブルグ音楽祭の、マルク・ミンコフスキー指揮のライブ盤なのだが、先日それを見直す機会があり、この台詞に再び出くわした。僕はそのあまりの“アクチュアリティー”に驚き、初見の時と同様、鳥肌が立つ思いがしたことを告白する。

この時代(ミサイルが飛び交い、大国同士が世界の至る所でお互いを牽制し合っている)このタイミングで見ると、その台詞の持つインパクトには絶大なものがある。オペラの初演は、1782年のウィーン。なにしろ、今から240年も前の作品なのだ。それが、時間と空間を超えて、こんなにも力を持つとは、まさに奇跡という他ないだろう。

僕にそう思わせるに至った背景には、このプロダクションの演出を手掛けたフランソワ・アブ・サレムの手腕も、もちろん一役かっているだろう。彼は物語の舞台をアラブに置き換え、そこにパレスチナ問題まで絡ませる。僕自身は、音楽やオペラ演出に露骨にイデオロギーや政治的なニュアンスを持ち込むことにはどちらかといえば懐疑的な立場だけれど、それでもこれだけの切実な現実性を突き付けられると、それを単なる好悪の問題に済ませてはおけないという気になってくる。

少なくともこのDVD、大守セリムを演じているアラブ訛りのドイツ語を話すアクラム・ティラヴィの繊細な演技だけでも、一見の価値があると思う。ちょっと見しただけでは、「なんと頼りない大守」という印象を受けるかもしれない。しかし、実はそこにこの演出の要、妙がある。

歌手の中では、難役コンスタンツェに挑んだクリスティーネ・シェーファーが出色。彼女はこの舞台の2年前、ベルクの《ルル》のタイトルロールで大成功を収め、今でも語り草になっている。さらにその11年後、今度はアーノンクールが振ったモーツァルトの《フィガロの結婚》のケルビーノ役でも喝采を浴びており、この音楽祭とは相性が良い。ここでも大げさな表現は注意深く避けながら、それでも観る者の目を惹きつけてやまない。

しかし、つくづく思うのだが、モーツァルトは、何百年も先の時代の聴衆が、この作品にこれほどヴィヴィッドに反応することを想像していたのだろうか? それとも、いつの時代も、「憎しみの連鎖」を断ち切ることがいかに難しいかを、直感的に感じていたのだろうか? 当時といまを比べると、人は変わっているようで、変わっていないのかもしれない。

そう考えると……、モーツァルトは怖い。怖いなあ。


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……… アルバム情報

モーツァルト:歌劇《後宮からの逃走》

● モーツァルト:歌劇《後宮からの逃走》
 コンスタンツェ:クリスティーネ・シェーファー(ソプラノ)
 ベルモンテ:ボール・グローヴズ(テノール)
 太守セリム:アクラム・ティラウィ(語り)
 オスミン:フランツ・ハヴラタ(バス)
 ブロントヒェン:マリン・ハルテリウス(ソプラノ)
 ペドリルロ:アンドレアス・コンラート(テノール)

 ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
 ウィーン国立歌劇場合唱団
 マルク・ミンコフスキ(指揮)

 演出 フランソワ・アブ・サレム

 録音時期:1997年8月
 録音場所:ザツルブルク、レジデンツ(ザツルブルク音楽祭)
 録音方式:デジタル(ライヴ)


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