[劇場名]ライプツィヒ市立歌劇場
Oper Leipzig
[所在地]ライプツィヒ … ドイツ
Leipzig … GERMANY
[開場年]1693年
[客席数]1,273席
…… ライプツィヒ市立オペラ / Oper Leipzig
[芸術総監督・音楽総監督]2009 ▷
ウルフ・シルマー / Ulf Schirmer
東ドイツ時代の産物には、虚飾を廃し、質実剛健という言葉に相応しい、機能的ではあるが、ゴツゴツとして硬質な、いわゆるドイツ的なデザインのものが多かった。コミニズムの影響か、飾ろうにも飾るだけの資金、技術、資材がなかったのかどうかは別として。この劇場は、そうした時代の建築物の中の成功例。東ドイツで新築された唯一の歌劇場でもあり、直線を活かしたデザインがクール・ビューティー的な気品を漂わせる。
工事が始まったのは1956年。設計を担当したのは、クンツ・ニーラーデ(Kunz Nierade)。一般的にはドイツ身体文化大学の建物が代表作とされるし、後にベルリンのコーミッシェ・オーパーの改修も手掛けたが、まとまりからいって、この劇場こそ彼の代表作だろう。完成は1960年。10月8日に行われたこけら落とし公演では、フランツ・コンヴィチュニー指揮でワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》が上演された。
実はこの建物は、4代目の建物だ。第二次世界大戦時のドレスデン大空襲はよく知られるが、ライプツィヒも1943年12月3日夜に空襲を受け、3代目の劇場もその時に破壊された。初代の劇場が開場したのは1693年で、ヴェネチア、ハンブルクに続いて、ヨーロッパで3番目の市民劇場として誕生している。当時のライプツィヒはヨーロッパ大陸の通商ルートのハブ、商都として成長を続けていた。
その数年後、テレマンがライプツィヒ大学に入学。彼は学生や市民からなる楽団を組織して音楽活動を展開、この劇場もその拠点となった。その後、1723年には、あのバッハがやってきた。1750年に亡くなるまで聖トーマス教会のカントル(楽長)として活躍。彼が生涯の半分をこの街で過ごしたこともあり、音楽ファンにとってこの街は、「バッハの街」というイメージが強い。
経済的な繁栄を背景に、新新の気風を自らのものとしてきたのもこの街の特徴。入場料さえ払えば、誰でも演奏を聞けるという時代の到来を告げたのもこの街だ。1743年にゲヴァントハウス管弦楽団が設立される。ゲヴァントハウスは日本語にすると「織物会館」。その建物の中に作られたホールを本拠地としたことでその名が付いたが、宮廷オーケストラとは一線を画す市民階級による世界初の自主経営オーケストラの誕生だった。
1766年に2代目の劇場がオープンした。こちらは市立劇場となり、ホフマン、ロルツィンク、マルシュナー、シューマンたちが活躍する。1868年には、アウグストゥス広場に3代目の劇場が完成、大作の上演によって次第にヨーロッパ有数の劇場として存在感を増していく。そして、それらを支えたのがゲヴァントハウス管だった。彼らは歌劇場のオーケストラとしても活躍し、音楽シーンの中心に座ることになった。
その組み合わせは時代を超えて、現在まで続いている。歌劇場の座付きオーケストラがコンサート活動を行う例はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やドレスデン・シュターツカペレに代表されるように当たり前にあるが、その反対は、それも超の付く名門が歌劇場のピットに入るのは珍しい。
ライプツィヒはまた、あのワーグナーの故郷でもある。1878年には、バイロイト音楽祭以外で楽劇《ニーベルングの指環》の通し上演が初めて行われたのもこの劇場。1884年にワーグナーが亡くなると、葬送曲とされるブルックナーの交響曲第7番はここで初演された。若き日のマーラーも一時、音楽副監督を務めている。
ワイマール共和国時代に入ると、従来の型を破るレパートリーに取り組み、1927年にクルシェネクの《ジョニーは演奏する》、1930年にはワイルの《マハゴニー市の興亡》もここで初演されている。ベルリンから列車で1時間ほどにあるこの街は、ずっと時代を先取りしてきた。東ドイツ崩壊への序曲がこの街から奏でられたのも理由あってのことなのだ。