[劇場名]ベルリン・ドイツ・オペラ
Deutsche Oper Berlin
[所在地]ベルリン … ドイツ
Berlin … GERMANY
[開場年]1961年
[客席数]1,865席
…… ベルリン・ドイツ・オペラ / Deutsche Oper Berlin
[総監督]2015 ▷
ディートマー・シュヴァルツ / Dietmar Schwarz
[音楽監督]2009 ▷
ドナルド・ラニクルズ / Donald Runnicles
1990年に東西ドイツが統一された時、ベルリンは3つのオペラハウスを抱えることになった。西にあったベルリン・ドイツ・オペラに、東にあったベルリン州立歌劇場(東独時代はベルリン国立歌劇場)、コーミッシェ・オーパーが加わるからだ。3つは多いだろう、統一直後はどこが先に潰れるか、という話が飛び交った。その時、危ないと目されたのが、いきなり資本主義経済に放り込まれる東側の2つとみられていた。
ところが、蓋を開けてみれば、東側の2つが躍進するという結果に終わった。東独のカリスマ演出家ハリー・クプファーを擁するコーミッシェ・オーパーは一歩も引かず、ベルリン州立歌劇場は音楽総監督(GMD)に誰も予想しなかった大物指揮者のダニエル・バレンボイムを迎えるという奇策に出て、ベルリン・ドイツ・オペラの方が押されることになった。
ベルリン・ドイツ・オペラは、1919年に設立されたシャルロッテンブルク・ドイツ歌劇場の後身。その後、名称がベルリン市立歌劇場、ベルリン・ドイツ歌劇場、市立歌劇場と変わったが、現在の建物が開場した1961年に再びベルリン・ドイツ・オペラとして再スタートを切った。
建物はフリッツ・ボルネマンの設計。装飾を必要最小限まで省略する「ミニマリスティック」を代表する建築の一つで、日本の新国立劇場のモデルともなった。ちなみにボルネマンは、1970年に大阪で開かれた万国博覧会のドイツ館の設計も手掛けている。収容人数は1865人とベルリンで最大、ドイツでも2番目に大きな劇場だ。
1961年9月24日に行われたこけら落とし公演は、1949年から1952年にかけて市立歌劇場の音楽総監督を務めていたハンガリーの名指揮者フェレンツ・フリッチャイが《ドン・ジョヴァンニ》を指揮した。彼は再スタートに当たり、一度は初代音楽監督に就任する契約を交わしたが、白血病が悪化して就任前に辞退してしまい、音楽監督は空席のまま、ハインリヒ・ホルライザーが首席指揮者に就任した。
日本との縁が深く、1963年にカール・ベームとロリン・マゼールに率いられて初来日、日生劇場のこけら落とし公演を行った。海外のオペラ・カンパニー初の引越し公演で、この時にマゼールが《トリスタンとイゾルデ》を指揮、日本初演が実現した。また、1987年の来日公演で、日本で初めて《ニーベルングの指環》4部作の通し上演を行っている。
ホルライザーの後、1965年にマゼールが初代音楽監督に就任して気を吐いたが、彼を含め、10年を超えて音楽監督を務めた指揮者は、2009年からその任にあるドナルド・ラニクルズ一人。三すくみ状況の中、バレンボイムの強力なリーダーシップに率いられる州立歌劇場、クプファーの後に人気当代一の演出家バリー・コスキーを迎えたコーミッシェ・オーパーを向こうに回して、ラニクルズが奮闘している状況だ。