クラシック音楽の裾野はどうやったら広がるのか。業界人が集まると、よくそんな話題が出る。クラシック音楽のファンを増やしたい、コンサートにもっと人を呼びたいという、いつもながらの話題だ。しかし、ちょっと待って欲しい。そもそも、人は誰でも、クラシック音楽を好きになるのか、それを議論するのがまずは先ではないか……。
下品な例えで恐縮だが(この話を始めると、いつも周囲から叱られる!)、クラシック音楽は官能小説と似ている。具体的なイメージを喚起、あるいは描写している音楽ではない。なので、想像力の働かない人には時に音の洪水にしか聞こえない。想像力の働かない人には詰まらない存在なのだ。官能小説も同様で、裸の画像、映像を見るわけではないので、活字から想像力を膨らませることができない人にとってはつまらない。しかし、逆にイメージがいくらでも沸いてくる人にとっては、淫情をこれほど刺激してくれるものはない。つまり、画像や映像を見ないと欲情しない人とクラシック音楽とは、相性がどこまで行っても合わないのだ。
一夜のコンサート、そこに来ている人たちにアンケート取ってみよう。その夜のアーティスト、その夜のプログラム、それを心底、人生賭けて待ち望んでいました、という人は何人いるだろう。チケットがどんなに高くても、彼女がそのプログラムをやるなら行きますよ、というような人だ。いいところ2割ではないか。ということは、残りの人は、それほど関心がなくとも、世評が高いとか、人に薦められたとか、誘われたとかいった理由でその演奏会に足を運んでくれている計算になる。ところが、通は、自分たち2割の人間が声を上げたからその演奏会が実現したかのように誤解している。実は、8割の人たちがチケットを買ってくれて演奏会のコストを負担してくれるからこそ、彼らが死ぬほど聴きたかった演奏会が興行的に実現したというのに。
そう、残りの8割の人は、行ってはみたが、演奏自体、あるいは作品自体に退屈してしまい、居眠りしてしまう可能性があるということだ。しかし、心配ご無用。よほど大きなイビキでもかかない限り、つまり、騒音を撒き散らかさない限り、周囲の人間にとってはたいした問題ではない。素晴らしい音楽、素晴らしい演奏の中でウトウトできるなんて、ある意味、それこそ贅沢の極みではないかと思う。
クラシックを愛する人を増やすということ、演奏会に人がたくさん来るようになること、それは別の問題だ。クラシック音楽を愛する人を増やすのは難しい。発情するかしないか、それは個人の内面に深く関わる問題なのだから。だから、単に演奏会に人がたくさん来てほしい、というのであれば、逆に発情しないという人を、違う理由でホールに呼ぶことだ。素晴らしい演奏を子守歌代わりに聴くという贅沢ができる人を。ドレスを見せびらかす場として利用したい人こそ大歓迎なのだ。通はそういうお客さんにもっと感謝しないと。