[劇場名]サンフランシスコ・オペラ
San Francisco Opera
[所在地]サンフランシスコ … アメリカ
San Francisco … United States
[開場年]1923年
[客席数]3,146席
…… サンフランシスコ・オペラ | San Francisco Opera
[総監督]2016▷
マシュー・シルボック | Matthew Shilvock
[音楽監督]2021▷
ウンソン・キム | EunSun Kim
開場は1932年。第一次世界大戦におけるサンフランシスコの犠牲者を追悼するモニュメントとして建設されたことから、「War Memorial Opera House」と呼ばれている。米国で初めて地方自治体が建設した劇場で、建設に当たって400万ドルの地方債が発行された。
そうした経緯から、その後も、1945年の国連憲章の起草がこの劇場で行われ、1951年には、第二次世界大戦後に連合国48ヶ国と日本との間の戦争状態を終結させる講和会議が行われた。会議で締結された講話条約によって日本の独立が回復された。
設計はコイト・タワーやサンフランシスコ市庁舎も手がけたアーサー・ブラウン・ジュニアが担当した。フランス・バロック様式の建物で、外壁にはカリフォルニア産の花崗岩が使われている。10月15日のこけら落とし公演では《トスカ》が上演された。
劇場の建設に先立ち、オペラ・カンパニーが設立されたのは1922年のことだった。尽力したのは、指揮者のガエターノ・メローラ。彼は1906年に初めてサンフランシスコを訪れて以来、フルタイムで活動するオペラ団体の設立をめざして有力者の間を奔走。カンパニーは翌年1923年の9月26日、市民公会堂で《ラ・ボエーム》を上演して船出した。
その後、メローラが約30年にわたり、活動拡大に務めた。しかし、彼は1953年8月30日、スターン・グローブで野外コンサートを指揮している最中に急死してしまう。後を継いだのは、メローラが合唱指揮者として招いていたカート・ハーバート・アドラーだった。
アドラー時代も1953年から引退した1981年末まで約30年続き、その間に国際的な名声が高まり、レオンティン・プライス、ルチアーノ・パヴァロッティやプラシド・ドミンゴ、キャロル・ヴァネスやトーマス・ハンプソンといった歌手、演出家のジャン=ピエール・ポネルたちが公演に加わった。
その後、総監督のポストはテレンス・マッキューウェン(1982–1988)、ロトフィ・マンスーリ(1988–2001)、パメラ・ローゼンバーグ(2001–2005)、デヴィッド・ゴックリー(2006–2016)へと引き継がれ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の後を追いかけ、全米第2位の歌劇場というポジションを維持してきた。
マッキューウェン時代の1985年には音楽監督のポストが新設され、初代音楽監督にジョン・プリチャードが就任した。マンスーリ時代には1995年末から1997年にかけて8,850万ドルを費やす初の大改修工事が行われている。工事期間中は閉館、1997年9月5日に再開場と創立75周年を記念するガラ・コンサートが行われた。
現在の総監督はゴックリー体制を支えたスタッフの一人、マシュー・シルボックが彼の後を継いだ。音楽監督は2021/2022シーズンから韓国出身のウンソン・キムがニコラ・ルイゾッティからバトンを引き継ぐことが決まっている。アジア系、女性指揮者の起用は初めて。その手腕に熱い視線が注がれている。